アレハンドロ・フェルナンデス
Alejandro Fernandez
スペインのペトリュス 伝説のテンプラニーリョ・マスター
リベラ・デル・ドゥエロに世界の注目
世界から注目されるスペインワイン。そのきっかけを作った1人がアレハンドロ・フェルナンデスであるのは間違いない。ロバート・パーカーは、ティント・ペスケラを「スペインのペトリュス」と呼んだ。ワイン・スペクテーターの表紙も飾った。
最大の功績は、ベガ・シシリア以外は無名だったリベラ・デル・ドゥエロに世界の注目を集めたことだ。1932年生まれのアレハンドロは、14歳で学校をやめ、大工など様々な仕事をした。世界クラスのワインを作りたいという夢に突き動かされ、1972年、借金をしてワイナリーを設立。凝縮感と果実味にあふれ、ストラクチャーとタンニンを備えたフルボディのペスケラは、ボルドーにも負けないワインとして、たちまち評価された。
次女のオルガは「当時のワインは色もコクもなかった。父はスペインワインの認識を変えた。生まれついての革命家。テンプラニーリョはスペインでしか成功しない誇り高き品種。その素晴らしさを信じ、愛していた」と語る。
ペスケラの成功で帝国の版図を拡大
テンプラニーリョ・マスターのアレハンドロは、ペスケラの成功によって、帝国の版図を拡大した。リベラ・デル・ドゥエロではペスケラとコンダード・デ・アサを手がけ、リベラ・デル・ドゥエロ西方のトロに近いサモーラ地方でデエーサ・ラ・グランハを造る。スペイン中央のラマンチャでは、エル・ビンクロを生産する。
アレハンドロのワインは、どれもたっぷりした果実味とエキスとともに、しっかりした骨格とボディも備えている。テンプラニーリョの古木を思わせる威厳のある顔をしたアレハンドロは、正式な醸造の教育や訓練を全く受けずに、偉業を成し遂げた。2人の娘に仕事を譲りつつあるが、まだまだ現役だ。
パーカーは「世界の極上ワイン」の中で「強い困難を乗り越えて、アレハンドロはワイン造りの世界で伝説になった」と、挑戦に満ちた人生に賛辞を送っている。
Information | |
ティント・ペスケラで「スペインのペトリュス」と称される高品質なワインを生産しているアレハンドロ・フェルナンデスは、努力と情熱の人でありリベラ・デル・デュエロをワインの銘醸地として世界に知らしめたという、すばらしい功績あげた人物でもある。テンプラニーリョというスペインの土着品種を敬愛する彼は、誰もが認めるテンプラニーリョ・マスターである。ティント・ペスケラの歴史は1972年より始まる。その時代リベラ・デル・デュエロで有名なワインはベガ・シシリアのみであった。かつては高品質なワインが生産されていたこの地では、その当時、ワインの造り手の多くは主に安価なワインを大量に生産していた。農家の中にはブドウの栽培を止め他の作物に転換する光景も日常的であった。そんな中、アレハンドロ・フェルナンデスは最高の赤ワイン造りを目指していた。彼は情熱の手本、不屈の精神の持ち主である。ブドウを植え、高品質のワインを生産するという夢を実現する為に、彼はどんな仕事もこなしていった。彼はテンプラニーリョの栽培に最適な土地を見つけ若い頃よりの夢であったワイナリーを40代で設立する。当初、伝統重視主義であったアレハンドロ・フェルナンデスも、年月を重ねるごとに大胆な改革を進め近代的な醸造法をボデガに導入するようになったが、彼はヴィンテージが許す限り、スペインの伝統的なレセルバとグランレセルバ・キュヴェの製法にこだわりを持ち続けた。カベルネ種を決して使わず、リベラ・デル・デュエロの原生品種であるテンプラニーリョへの確固たる忠誠を捨てることはなかった。テンプラニーリョにとって理想的な土壌での栽培を心がけ、取り扱いが難しいこの種のブドウのポテンシャルを最大限に引き出すことに成功したのだ。ロバート・パーカーが「これぞスペインのペトリュス」と評価したことによりティント・ペスケラの名は世界中に知れわたることになる。そのすばらしい出来に世界は驚嘆し、いまやリベラ・デル・デュエロを代表するワインとなった。 | |
生産地 | スペイン リベラ・デル・ドゥエロ |
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商品名 | ティント・ペスケラ・レセルヴァ・ミレニウム |
作り手 | アレハンドロ・フェルナンデス |
格付・認証 | D.O. |
生産年 | 2008年 |
色 | 赤 |
内容量 | 750ml |
本数 | 1本 |
味わい | フルボディ |
ブドウ品種 | テンプラニーリョ100% |
ガイドブック | -- |
飲み頃 | 今~ |
飲み頃温度 | 16℃~18℃ |
推奨保存環境 | 温度=10℃~16℃、湿度=70%~75% |
備考 | においが強いものと一緒にせず、振動は避けるように保管して下さい。 |